兄目線でアニメ
 
アニメに対する、視点、論点、あと,メイドさんとか、自作PCとか、鉄道とか酒とかな話。
 



シュールレアリズム
~説明~
抽象的な冒険、日本ではダダイズムとは切り離されて考えられることが多い。

宗教論

宗教の残念なところといえば、それは神と人とのレベルが違いすぎるというところでありまして、例えば無神論者の方々は、神や宗教は文化創生の際に人が作り出したものであって、神の全能性は人類の総体としての知恵や力の域を脱さないし、人類の総体としての力は神の全能性に負けずとも劣らないものだと言うのです。
しかしながら、神の全能性というのは無限であるのが前提なのです。特に一神教の神様にとってこれは欠く事のできない要素の一つです。しかしながら無神論者の言う人類の総体としての力というのは、どうしても無限とはいえません。60億の人口が100億に成っても、全人類が皆、高学歴になり研究に明け暮れたとしても、人類の知や力は、数字で計れてしまう、有限なものにどうしても止まってしまうのです。
しかし神というのは、そういったものを超越した、無限の全能性を持った存在ですので、無神論者の言う人類の総体の力など、神にとっては塵の一つとしても映らないものなのです。この時点で無神論者のいう無神論は論駁されてしまうのですが、だからといって神様を信じれば救われるかといえばそうでもないのが事実です。
神様は先ほども説明したとおり無限の全能性を持っています。神様にとってみれば人間など塵の一つとしてもその目には映っては居ないでしょうが、神様は全能なのでそんな塵の一つも見逃さず救ってあげようと考えるでしょう。しかしここで問題があります。神様は全能なのでとても素晴らしい教えを人間たちに授けてくれるのですが、人間達は神様に比べてあまりにもバカすぎるので、神様の教えを上手く理解できません。神様は全能なので馬鹿にでも解る様に、解りやすく人間達に自らの教えを説いているのですが、それにもまして人間は馬鹿なので何を聞いてもよく解りません。
これは簡単に言うと、任天堂Wiiを持っていない孫に、おじいちゃんが今人気だからとモンスターハンター3を買ってやるのと同じようなものです。Wiiさえあればモンスターハンター3を遊びつくし、内容を知る事が出来ますが、孫にはWiiがありません、孫はソフトのパッケージとか説明書とかを読んで、ああ、こんなゲームなんだなと知ろうとしますが、やはり実際にゲームをしないことにはその内容を十分理解する事など出来ないのです。
神様からの教えも同じです。確かに経典や宗教として、ゲームの説明書と同じように神の教えの欠片は覗くことが出来ても、全能性の無い我々人類には全知全能の神様の教えて下さった教えを生のまま理解するなんてことは事は馬鹿すぎて出来ないのです。そして理解できないならまだしも、勘違いをする人々も現れます。例えば、説明書やパッケージイラストしか見ていない孫は、イラストや説明文から妄想をして、僕ならグラギアスなんて5分で狩れるなとか、考え始めたりします。そして同じWiiを持っていないけれど、親戚にモンスターハンター3を買ってもらってしまった哀れな子供たちと、妄想の仲でのモンスターハンター武勇伝を語り始めるのです。
人にとっての宗教もこれと同じで、神様は一つの教えしか授けていないのに、人々はおのおの勘違いした、妄想の中の神様の教えを中学生並みの大げさな誇張を加えて話し始めるものなので、いつの間にか色んな宗教が出来てしまうわけです。そんで持って、あいつの解釈はおかしいとか言って戦争とか始めるので馬鹿の二度塗り三度塗りです。馬鹿さにかけては人類も全能性があるのかなとも思ってしまうぐらいです。そしてこういったところが宗教の残念なところなのです。
元々、人が幸せに生きるためにあった宗教が人を傷つけている世の、もうちょっと人は神様が居るとしたら神様の本当に言いたかった事を理解しようと努力するべきですし、神が居ないのならば、宗教以外のところで人類はもっと力を入れて頑張るべきです。でも困った事に、人は神が居るのか居ないのか、そういう事が解らないほど馬鹿で愛らしいのがこれまた残念な事なのですが。



8月4日(火)21:28 | トラックバック(0) | コメント(0) | シュールレアリズム | 管理

ねえ、少し考えようよ2。

さて、メイド話はここまでにして、本日僕が話したかったのは巫女話なのである。ギャオTVで先日から「神無月の巫女」の再放送が始まったので、このブログをみている西の善きオタクどもはちゃんと見た方が良いなと思ったのでした。この作品は萌兄にとって、5本の指に入る超作品で、話したい事は沢山あるけれど、ネタばれになるので辞めます。

唯一つ言える事は、この作品において色々起こる不幸な事に対して、主人公たちは「(私たちは)神無月の巫女だから」というだけで、すべてすっ飛ばして納得してしまうところがとてもいいと思いました。萌兄もメイドさんの何処が好きかと問われれば「メイドさんだから」と答えるでしょう。恋人の何処が好きと問われて「全部でぇす♪」と答えるのとは訳が違います。存在そのものにまで掘り下げて其れがそうなってしまっているのです。「全部好き」という人は、その恋人が少しづつ老いたり、性格とか食べ物の好みとか、タオルのたたみ方とか変わっても、変わった後の彼、若しくは彼女の全部を好きでいられるのでしょうか?僕にとってのメイドさんはそんなものじゃないんです、メイドさんがたとえ年老いても、病気になっても、一緒にモンハンしてくれなくても、メイドさんはメイドさんでしかあれないのですから、僕がメイドさんを嫌いに成る事は出来ないのです。

神無月の巫女も同じで、主人公たちがどんなに努力しても、戦って勝っても、生まれ変わっても、彼女たちが神無月の巫女である以上、最終回で目にすると思いますが、あれ以外の結末はありえないのです。だって神無月の巫女だから!理不尽でもなんでも、神無月の巫女である以上、仕方ないわけです。

そんな具合で、神無月の巫女を穿った形で見ると面白いです。穿ってない形以外ではいろんな意味で見る事が出来ない話ですけどね。



5月29日(金)10:38 | トラックバック(0) | コメント(0) | シュールレアリズム | 管理

ねえ、少し考えようよ。

「世界が僕を裏切り続ける限りにおいて、僕は世界を見限り続ける。」最近の萌兄のテーマはこんな感じ。

世界は依然、この小さな萌兄という存在に見限り続けられているのだ、世界、もしくはそれを支えている神(世界自体が神とも考えられますが)そういった大きな存在は、このメイド狂いの狂人にさえ、呆れられ、馬鹿にされ続けているという事実に憤りを感じないのだろうか?

正常で、何よりも正しく、そして強大な神、もしくは世界は、萌兄なんぞに馬鹿にされている。馬鹿にされて悔しくないの?悔しいんじゃないの?悔しかったら萌兄にメイドぐらい与えれば、彼は泣いて喜んであなたたちを名実供に神と崇めて敬うだろうに、本当に惜しい事をしているんだよ。メイドの一匹でここまで心変わりできる人間は他に居ないというのに・・・

さて、問題としては、像が蟻に噛まれたところできずかないのと同じことが、僕と世界(もしくは神)との間で起こっているのではないかという疑念がぬぐいきれないという事実である。

これについては、答えは出しようが無い。だって僕には萌兄の言い分や行動しか観察できないのだから、世界や神といった巨大な存在を観察しうる観察眼やら心眼やら聖なる何とかかんとかとか、あれば解るのだろうが、僕には生憎そういったものがデフォルトで装備されてはいないのである(こういう不便な設定を作ってしまった部分においても萌兄が世界を見限る一因になっているように思えるのだけれども)まあ、そんな訳で答えが出ない事を考える事には意味はあるかもしれないけれど、観察できないものを観察しようとする事には大して意味が無いわけで、ここで議論が終わってしまうのだ。

ここで誤解してはしく無いのは、観察できないものを観察する努力をしないのは単なる怠惰のためであると思われてしまう事だ。

確かに、観察できないものを観察しようとして、望遠鏡や顕微鏡やX線写真や、形而上学や、相対性理論や、量子力学が発明されたのも事実であるので、観察できないものを観察しようとする事には実は凄く意味のあることなのだ。

けれども萌兄がしなくてはならない観察はそういった、お堅い観察ではなくって、メイドさんの姦撮なのである。しかしメイドさんが萌兄に居ない以上、むやみにエプロンドレス(エプロンドレスを着ているからといってメイドさんとは限らない、最近萌兄が思うに、過去に萌兄はメイドさんは服装でも、精神性でも、職業でもなくて、ご主人様との関係性がメイドさんをメイドさんたらしめていると書いたことがあるけれど、この頃はそれも間違っていたのではないかと感じているのだ、ここでは詳しい話は置いておくが、メイドさんは誰といようと、どんな職業だろうと、どんな考えだろうと、どんな服装だろうと、メイドさんはメイドさんであり、メイドさんをメイドさんとして規定している本質とはメイドさんという存在自身なのではないかという事なのだ。よく考えてみればそのとおりなのである。本質とはそのものがもっとも優れている箇所、層でなければそれがそれであり続けられない事の事なのだ。例えば鋏であればその本質は「切る」事であり、切る事が出来なくなった鋏はもはや鋏ではない。贔屓目に見ても壊れた鋏であって鋏ではなくなってしまっている。ではメイドさんにとっての本質とは?メイド服を着ていなくてもメイドさんはメイドさんだ、メイドさんはパジャマも着れば裸で家中をうろつく事もあるからだ、ではメイドという仕事を辞めたらメイドさんでなくなるか?これも違う。メイドではなくなるがメイドさんはメイドさんのままだ、街には主人に捨てられ彷徨っている野良猫ならぬ野良メイドさんがウロウロしているじゃないか!では主人様との関係性がなくなってはメイドさんではないのか、これも違う。主人を大切に思うだけがメイドさんじゃない、奴隷のように扱われて、泣いてしまうメイドさんもメイドさんだ。要するにメイドさんをメイドさんで無くすためには、メイドさんで無くすしか方法が無いのである。だから、メイドさんというものはメイドさんそれ自体であって、他の何者でもないのである。だから、エプロンドレスを着ているからといってメイドさんがいるというのは、とんだお門違いなのだ。)を纏った生き物を姦撮しては犯罪になってしまう。犯罪は良くないから堅実な萌兄は姦撮を諦めざるを終えないのである。


ああ、前置きが長くなったので、続きは今度!



5月28日(木)19:13 | トラックバック(0) | コメント(0) | シュールレアリズム | 管理

トモダチ倶楽部の崩壊 2

ある日の事です、トモダチ倶楽部の代表を務めていらっしゃるH氏の提案で、彼等は大江戸線飯田橋駅のホームと出口に通ずる通路の一部を間借りして何時ものように集会を開く事になりました。飯田橋という街は、たまたまメンバーの中でも最年少のM氏が暮らしている神楽坂に程近く、彼はその日ペットのオウムを鳥篭に入れたまま連れてきて、他のメンバーたちの前に掲げて言いました。
「このオウムこそ、我々トモダチ倶楽部のマスコットにしようと僕が調教したオウムなのです、どうぞその素晴らしい言葉をお聞きください!」そうM氏が宣言するやなやオウムは待ちきれなかったとばかりに歌いだします。

「コンニチハ、トモダチ、トモダチ、ワタシノ、トモダチ、コンニチハ、トモダチ、トモダチ、トモダチ、ワタシノ、トモダチ」と、オウムは歌い続け、M氏も実に誇らしげな表情でオウムの歌に聞き入り目を瞑って相槌を打ちます。地下の通路内はオウムの声だけが響き、これが永遠に続いてゆくのではと、そこにいいた部員達は思いました。
 しかしここは駅構内です、駅に両国方面行きの電車が着くと、その歌も直ぐに雑踏に消し去られます。何とか呪縛から開放されると今まで息を潜めていたメンバーたちの中でも、最も血気盛んなK氏が最初に口を開きました。
 「ふん、オウムに友情を語らせるだなんて、お前は今までの我々の議論の内容が全く理解できていないんじゃないか?」思いもしない批判にオウムの声に聞き入っていた、M氏は、その穏やかでった表情を急変させ、憤った様子で反論します。「バカ言わないでください、友情というものが解ってないのはあなたの方じゃないですか!このオウムは僕等に友達として挨拶しているんですよ、友達として挨拶してくる相手が友達じゃないなんて、そんなことあってたまるか!」
 「馬鹿いっちゃいけない、友達というのは、挨拶とか、言葉だけで成り立つものじゃないんだよ、大切なのは心さ友情の有無さ。だから無口な人間同士でも友情は成り立つんだ。」
 「馬鹿言ってるのはあなたの方ですよ、態度に表さなきゃ、友情があるかどうかなんて解らないじゃないか!」
 「ほほう、態度で全て決まるのなら、もし相手が敵意を持っていても、自分に対して友達としての態度をとるのなら友達となうだろう、これはおかしな話だ。」
  二人の言い争いは次第に熱を増してゆきます、この状態を見かねて、普段は殆ど議論にも口を出さず進行役に努めている、リーダーのH氏も二人の中に割って入ります。「おいおい二人とも、もうこの辺にしておきなさい、議論をすることは結構だが議論には議論のルールというものがあるんだよ。」彼の仲裁でK氏は頭に血が上っていた事を反省しますが、まだまだ若いM氏にはそんなH氏の言葉は届きません、
「全部態度なんだよ、どんなに自分に悪意を持っている相手だっ、困っているときに助けてくれるのが友達さ、我々は友情についての議論がしたくて来てるんじゃない、友達についての議論がしたくて来てるんだ。それに友情だって同じことさ、友情が向うに在るか無いかなんて結局は相手の態度から推し量ってるだけじゃないか、だから人はどんなものにでも愛着を持てるのさ、たとえ人じゃなくてもね。それにこのオウムはあなたと違って少なくとも僕に敵意は持っていないでしょう。」

「お前は、人間の感情の中でも最も崇高な友情を愚弄するつもりか!」と、一度落ち着いたK氏の頭に再び血が上り、ついに彼はM氏に手を上げてしまいます。頬を殴られ倒れたM氏の胸に今まで大切に抱えられていた鳥篭は、その衝撃で彼の手から離れると放物線を描いて宙を舞った後に通路に叩きつけられました。
「コンニチハ、トモダチ、トモダチ、ワタシノ、トモダチ、コンニチハ、トモダチ、トモダチ、トモダチ、ワタシノ、トモダチ」落下の影響で鳥かごの扉が開いてしまったのでしょう、オウムは鳥かごから脱出し、狭く人で溢れた通路の中を飛びながら歌い続けます。

その光景はとても不思議な説得力がありました。当時トモダチ倶楽部に所属していた私も含め他のメンバーもそれを感じたらしく、その場に居たたまれなくなり一人また一人とその場を離れて行きました。私は一度地上に出て、JR線に乗り換えることにしました、空中に立てられたホームで三分間電車を待つと黄色い帯の中央線が到着し、私はそ知らぬ顔で電車に乗り込み、窓際に立った次の瞬間でした、地下道の入り口からオウムが一匹飛びたって行き間もなくM氏がそれを追って飛び出しました。
「ああ、危ない。」私が呟くと同時にオウムが飛び去った、トラックが絶え間なく走っている車道にM氏は侵入、轢かれると思った矢先に電車は動き出し彼は私の視界から消えていました。

 そして、それ以来トモダチ倶楽部の会合は二度と行われず今に至っています。だから、M氏がどうなってしまったかも、M氏のオウムが本当にM氏に敵意を持っていなかったのかという疑問も私には解らないままになってしまっているのです。



12月5日(水)22:15 | トラックバック(0) | コメント(0) | シュールレアリズム | 管理

トモダチ倶楽部の崩壊1

トモダチ倶楽部。

東京の地下の某所にそれは確かに。けしてそれはインターネット上の仲間集めサイトとかそういうものではありません。

彼等は大江戸線とか半蔵門線とかのホームの片隅でよく会議を行っています。決して銀座線とか丸の内線のホームで行わないのは、彼等がそこまで牧歌的な性格の集団ではない事を象徴しているのでしょう。

まあ、前置きはこの辺にして、皆さんには先日起こってしまった、このトモダチ倶楽部の崩壊についてお話いたしましょう。

まず、崩壊してしまったトモダチ倶楽部について。
もともとトモダチ倶楽部の活動の主旨と言う物は、皆さんが想像されるような仲の良いお友達同士が集まり、皆で同じ時間を共有する。という単純なものではではありません。確かに彼等一人一人は強い友情で結べれていますし、たびたび会合を開くわけですから、そうともいえなくは無いのですが、それはこの倶楽部の本質とは言えません。

では一体、この倶楽部とっての本質はと聞かれれば、倶楽部の会員であれば全員口を揃えて「友達について議論」すること答えるでしょう。そうです、トモダチ倶楽部は単なるお友達同士の遊びではないのです、極めて文化的で崇高な団体です。しかも彼等は、単に議論するだけで活動を終えたりはしません。
議論で発見された、既存の友達の概念の中で間違いと思えるものは、ことごとく排除するために講義活動なども行います。例えば地下鉄の中で男一人、女二人という団体を見かけると、彼等はすぐさま講義活動を開始します。

まず、切り込み体長のK氏がその団体に声をかけます。
「君たちの間柄は友達同士と考えてもいいのかね?」突然話しかけられた三人は少し動揺しますが、三人のうち唯一の男が「そうですけれども」と一応の返事。するとK氏は「それはおかしい話だ。例えば君、君の小学校では鶏を飼ってはいなかったかい、その鶏小屋には雄鶏が一羽、雌鳥が二羽、そしてヒヨコが一匹いる。これはおかしくはないかい?」と見ず知らずの男に疑問を投げかけられ、三人うち女二人はさらに動揺し、残りの男は目つきを変えて「それがなんだって言うんだ、もういいからかまわないでくれ。」
しかし、そんな抵抗にK氏はひるんだりなどしません「じゃあ、質問を変えよう、ファミレスの隣のボックス席に、男が一人、女が二人、そして子供が一人。これはおかしくはないかい?」
「人を馬鹿にするのもいい加減にしろよ!」
「いやいや馬鹿に何てしていないさ、しかし君はどうするつもりなんだい?君はどちらの女性と、繁殖するつもりなんだい?ちゃんと選ばないとおかしなことになってしまうし、もし選ばないために友情というものを道具として扱っているのなら、それは友情というものに対して失礼極まりない行為だ!」
「もうやめてよ!」と女の一人が叫ぶ、「もう行きましょ。」ともう一人の女も男の手を引き、男が「この、きちがい野郎が!」とK氏に罵声を浴びせかけます。
しかし、そんな心無い言葉にもK氏は傷ついたりしません、いえK氏だけではなくトモダチ倶楽部の全員がそういった強い意志を持ってこの東京の地下における友達関係の正常化、また質の向上化に勤めているのです。その点を見ても、彼らトモダチ倶楽部は単なる自己満足に終始する、学会などの団体とは一線を画し、真に社会に対してもとても有益な団体といえたでしょう。

しかし、どんなに優良な団体であっても終わりは着ます。物事の終わりというものは、その終わる対象が強大であればあるほど、つまらないものがきっかけとなりそれが始まるものです。例えば、東西冷戦にしたところで、その終結の始まりはベルリンの壁に放られた一本のトンカチですし、フランス王朝の終焉も王妃の浪費が引き金を引き、大哲学者のニーチェの狂死のきっかけを作ったのも、惨めな馬車馬一匹だった。
そして、それらの大きな出来事とトモダチ倶楽部の崩壊を同程度の問題と考えるわけではありませんが、トモダチ倶楽部にとってのつまらないきっかけというものは、なんと一匹のオウムだったのです。



12月1日(土)16:22 | トラックバック(0) | コメント(0) | シュールレアリズム | 管理


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