兄目線でアニメ
 
アニメに対する、視点、論点、あと,メイドさんとか、自作PCとか、鉄道とか酒とかな話。
 



小説・文芸
~説明~
小説に対する感想や、自作した文芸作品を掲載

新しい物語の立案3

ピンポーン、チャイムが鳴って、S男は正気に戻る。もしチャイムが鳴らなければS男は欲情に負けて、隣で黙って湯船に供に浸かっているメイドに抱きついていただろう。「はーい」メイドは返事して、そそくさと風呂から出て行った。

A子がチャイムを鳴らしてから、メイドがドアを開けたのは返事がしてから少したってからだった。A子から見ても、その日のメイドの姿は、湯上りと一目で解かった。しかし、A子にとって、メイドのことなんてどうでもよかったので、S男に会いに来たという用件だけ伝える。それを聞いてメイドは、あからさまに嫌そうな顔をしたが、しぶしぶといった感じで、S男を呼びに行った。

五分もしないうちに、S男はリビングに下りてきた。リビングで一人待たされていたA子は、S男の顔を見て、安堵したが、S男の後ろからメイドがくっついてきたので、また憂鬱になる。しかし、A子を憂鬱にさせたのは、それだけではなかった。

そう、メイドと同じくS男も、どう見ても、今、風呂から上がってすぐという様相だったのだ。その姿を見てA子は脳裏に瞬時に最悪の可能性がよぎる、もし、S男とメイドが一緒にお風呂に入っていたとしたら、本当にそうだとしたら、もちろん、S男とメイドがそういった親密な関係を築いているということだけでもA子にとってはショックなことなのに、なにより、一緒に風呂に入ったという事は、今まで、A子が心の支えとしていた、S男とA子だけの秘密の共有というものさえ、もう消え去ってしまう事にもなるのだ。

A子はいても立っても居られなかった。A子はS男がソファーに座る前に席を立ち、S男の腕を捕まえて、大事な話があるから、2人だけで、S男の部屋で話そうと、強引にS男を引っ張った。その間、メイドは、お茶を出しますから、ちょっと待ってくださいとか、S男とA子を二人っきりにしないための、時間稼ぎをしてきたが、A子はそんな事無視して、S男と、彼の部屋に急ぐ。

A子と、S男は部屋に入った。A子はさりげなく部屋の鍵を閉める。これで、メイドは入ってはこれないはずだ。準備はととのった。A子単刀直入にS男に、あのメイドとはどんな関係なのと聞いた。

S男はA子に質問されて、動揺した。S男はA子のことが好きだった。しかしその好意は、女性にたいしてのものではなく、純粋に、友人としてのものだ。そう、だからこそ、男として、メイドさんという女を求めてしまう、自分に対する、背徳感から逃れるために、自分から見れば、ただの友人、そして潔癖な関係であるA子と時を過ごすことで、今まで、自分の精神を浄化してきたというのに、今、A子がS男に向けている感情は、A子がS男を「男」としてみているからこそ、沸き立つ感情に他ならないのだ。

S男は黙ったままだった。その沈黙が、A子の心を、じわじわと削り取って、彼女から余裕というものを、奪い去ってゆく。A子は痺れを切らして、再び聞いた。しかも今度は、もっと直接的に、さっき、メイドと風呂に一緒に入っていたんじゃないか?、そしてメイドはS男が男であることを知っていえるのかと・・・

S男は、気迫に押されて、答えた、メイドさんは自分が男であることを知らないはずだと・・・そう、じゃあ、お風呂は?間髪いれずにA子が詰る様に問い詰める。しかしS男は本当の事を言うわけにも行かないから黙ったままだ。

A子は、そんなS男の様子を見て悟る。そして、S男に、答えられないという事は、どう考えても一緒に入ったとしか考えられないと、言った。

S男は静かに頷いた。そして、A子に謝った。風呂に入ったのは認めるけど、本当に性別はばれてはいないはずだと、そして、今まで、A子の事を、自分の背徳感を癒すための、単なる都合のいい友人・・・道具として使っていたことを。それだけ語り終わった、S男は力が抜けたように、涙を流して床に伏した。

A子はそんなS男に言った、そう、私を道具にしてたんだ・・・どうせ道具にするなら、メイドなんか使わないで、私だけを、私の全てを道具にしなさい。そう言って、A子は徐に服を脱ぎ始めた・・・



1月26日(金)21:59 | トラックバック(0) | コメント(0) | 小説・文芸 | 管理

新しい物語の立案2

昨日の続き、主人公の事を、主人(女装少年)とか書くのややこしいので、仮に「S男」と名づけます。

S男はS男で、メイドさんと上手く話せなくなってしまったのとは裏腹に、あのシャワー室で見た、メイドさんの裸が忘れられない。そこで、主人は(このとき主人は、メイドさんに自分の正体がばれているとは知らないので、)女同士一緒にお風呂に入ろうと言う。(この時主人は、自分だけ先に入って、乳白色に染めた湯船に浸かって、自分の性別がばれないようにする)

誘われた側のメイドさんは、当然自分の主人は実は異性だと知っているから、少し戸惑うけれども、もし、主人が、自分の本当の性がメイドにばれてしまったんじゃないかとかんぐって、それを確かめるために(もし嫌だといったら、自分が主人様の性別を知ってしまったと主人様に思われてしまう。)こういうことを言い出したのではと思って、「女同士だから」と強調する主人の誘を断るわけにも行かずに、一緒に風呂に入る・・・・・

風呂に入ると、主人は既に体を洗い終えて、湯船に浸かっている。メイドさんは内心ほっとして、自らの体を洗い始める。

S男(女装少年)はメイドさんが、体を洗っている作業を、じっと凝視した。メイドさんは、主人のそんな視線を感じて、いよいよ主人が、自分を本格的に疑っているんじゃないと、改めて心配になる。S男の方も自分がメイドさんを、いやらしい目見てないかと、心配になる。

メイドさんが体を洗っている最中、無論、S男とメイドさんの間に会話などは無く、重苦しい空気の中で、2人は、お互いの腹の中を探り合っていた。

その日、S男の女友達(仮にA子)は自分の中で、いつの間にか大きくなっていた感情に、行動を起こさずには居られなかった。

A子と、S男は、家が隣同士で、生まれたときから家族ぐるみの付き合いをしている。そのため、A子は幼い時から、まるでS男とは兄弟のように親密な関係を気づいており、当然、昔は一緒に風呂に入っていたから、幼馴染のS男が男であることも知っている。そう、自分は彼の秘密を知っているのだ。

A子は秘密を共有する事で、今まで自らとS男との間は、誰にも侵害されない特別な関係があると信じてやまなかった。しかし、隣にメイドがきてからというもの、S男はメイドといる時間が長くなり、自分と一緒に居てくれる時間が少なくなった。

それでも、最近はS男が自分に気を使ってくれているためか、自分とよく一緒に居てくれるようになったが、それと時を同じくして、あのメイドの自分に対する目つきや態度が急激に悪化し、まるでA子にはメイドがS男を独り占めしようとしているようにしか思えなかった。

しかし、何があったとしても、A子はS男と秘密を共有している以上、誰にも邪魔されることのない関係があると信じ、同時にそれを礎に今まで生きてきた。そう、A子はS男と遠ざかって始めて自分にとって、S男の存在は、何よりもかけがえの無いもと気づいたのだ。

が、A子にとってS男との、秘密という絆を再認識する事は、一方で、自分をこの上なく勇気付ける力になったが、その一方で、この秘密は、彼女を不安のどん底に突き落とす危険性も秘めていたのだ・・・そう、もし、あのメイドがS男の秘密を知ってしまっていたら?・・・それはA子とS男の関係の優越性を一気に突き崩す力を持つことであった。

だから、A子は決心した。メイドがS男が男であることを知ってしまっているのか、今日、今から確かめにいこうと・・・そして、A子はS男の家のチャイムを鳴らした。

続きはまた今度



1月24日(水)21:57 | トラックバック(0) | コメント(0) | 小説・文芸 | 管理

新しい物語の立案

例えば、こんな作品が読みたい。

「メイドはお嬢様に(僕)に恋をする。」

主人公は、ごたぶんにもれず女装少年だ。何故女装しているかなんてどうでもいい、女装をしているのだ。

ある日その、少年の家にメイドさんがやってくる。やってきて、その日からメイドさんは、その少年のお世話係を命じられる。少年の母は、少年を産んですぐに死んだので、少年はメイドさんの母性に惹かれる・・・

メイドさんの方も、少年は女装しているので、同性だとおもって最初は、気軽に付き合うが、毎日の暮らしの中で、何か自分の主人が隠し事をしてるんじゃないかと思う。でも、主人のプライベートに干渉するのは、メイドとして良くないので、あえて口にしない。

そんな、ある夏の日のこと、ご主人様(女装少年)も暑いので薄着。メイドさんは、暑いことこのうえないメイド服を着なければ成らないので、下着とかはもうぐちょぐちょ。

それでもがんばってお掃除を終えると、ご主人様は、テラスの安楽椅子ででお昼寝の真っ最中。メイドさん、いくら夏でも、何も掛けずにお昼寝は、体に毒だと思ってタオルケットを主人に掛けようとする。

しかし、薄着のご主人様の服装はミニスカートの可愛いワンピース、暑くて寝苦しいのか、何度も寝返りを討ったせいで、スカートが捲くれ上がってしまってパンツが丸見えだ。

そこでメイドさんは見てしまった、ご主人様の女性にはないはずの股間のふくらみを・・・メイドさんはただでさえぐちゃぐちゃの下着をびちょびちょにして一人、ずっとシャワー室篭っていた。

そして、夏の暑さ、シャワーからこぼれる湯の熱、そして自らの内にともってしまった熱いものにのぼせてしまい、シャワー室で倒れてしまう。

幸い、倒れた時に壁に立て掛けていた風呂掃除のモップや洗面器を倒して大きな音が出たために、主人(女装少年)が目覚めて、メイドさんの様子を見て救急車を呼ぶ。

救急車から降りてきた救命員の迅速な処置で、メイドさんは大事には至らなかったけど、主人(女装少年)は、生まれて初めて見た(母が早く死んだので、母親と一緒にお風呂に入った事がないから今まで見たことない)女性の体に、言いようの無い興奮を覚える。

それからというもの、メイドさんは、主人の事を意識するようになってしまった。今まで、主人が女友達と一緒にいるのを見ても何とも思わなかったのに、主人が男性だと知った時から、あからさまに自分が主人の女友達に嫉妬している事に気づく。

主人は主人で、メイドさんを、あれ以来女性として意識してしまって、毎日悶々としていた。メイドさんと一緒に居ると何となく恥ずかしいので、同世代の少女達と遊ぶようにしていたが、日に日に、メイドさんの自分の女友達に対する視線や態度がキツくなっていく様を見て、何の事か判らない主人は、心痛め、メイドさんとまともに話す事さえ出来なくなる。

また、メイドさんは、そんな主人の態度に、心痛める。なぜ、主人様は、自分と、今までのように普通に接してくれないのだろうか?メイドさんは、いろいろ考えた結果、自分が主人様の秘密(女装している、本当は男ということ)を知ってしまったのが、ばれたんじゃないかと思う・・・・

続きは今度。



1月23日(火)20:55 | トラックバック(0) | コメント(0) | 小説・文芸 | 管理

トイレの壁に「世界平和」って落書きを。2

昨日の続きです。

昨日の話からして、落書きより芸術の方が優れていると思えるのは当然だけど、確かに芸術は凝っていて素晴らしいものが多いけど、その代わり、何か考えさせることを強制して、社会に影響与えてしまうという性質を持っているから、うかつな事はかけない。

例えば漫画がそうだ、昔はただの娯楽で、漫画というメディアで、どんなに世界平和を訴えたり、社会風刺をした内容のものを描いたとしても、「所詮は漫画」とかいわれて多くの人に本気で相手にされなかった。でも、今や漫画というメディアも世の中から『芸術』として受け入れられて、社会にメッセージを訴えかけて、影響力を持つようになった。2ちゃんねるもそうだ、最初は本当にトイレの落書きとか言われてたけれど、今や、そこに書かれていることが、ニュースで出たり、評論されたり、ドラマになったり、警察が動いたり、ある意味『芸術』になってしまった。

『落書き』が『芸術』に格上げされることは悪い事じゃない、むしろいいことだと思う。でも、一度芸術になっていますと、社会や、人に、影響力が強くなるため、規制が強くなったり、あまり刺激の強すぎるものは作れなくなってしまうし、芸術としての見方が強まると、肩の力を抜いて楽しめる娯楽的な作品はレベルの低いものとして見られてしまう事がある。こういう、メディア内の差別みたいなものが、今の漫画やアニメといったメディアの中では結構問題に成っているとおもうし、何より怖い事は、落書きから芸術に格上げされるということは、もういい加減なものや、激しすぎるものはつくれないという枷がはめられてしまうということだ。

例えば、道徳って何だろうとか思って、逆にとても非道徳的な話を文学作品として書いたとすると、いろいろ話題や、問題にも成ってしまうだろう。でも、その作品がエロゲとして出されたら?同じような話だとしても、「すごい内容だけど、所詮エロゲだしな」で終わる場合が殆どだと思う。それはある意味エロゲというメディアが、成長はしているとはしても、まだ芸術として世の中に認識されていないためだ。いい意味でエロゲは落書きのままでいる。

この「いい意味で落書き」というのが僕は大切なんだと思う。ただでさえ、堅苦しい世の



中そういう、いい加減なメディアってのは必要なんじゃないだろうか?何かすごく大切なんだけど、大勢には逆らっているような事を書くとき、もし、芸術化してしまった漫画というメディアでそれをやれば、圧力もかかるだろうし、風当たりも強いと思う。でも、いい意味で落書きの、エロゲとかエロ本とか、このブログとかに書く分には大した力も無いし、それを見て考えてくれる人は少ないと思うけど、本当に自由に作ること、本当に自由に触れて感じる事ということが出来る一つの方法になっているのだとおもうのだ。



12月1日(金)22:07 | トラックバック(0) | コメント(0) | 小説・文芸 | 管理

トイレの壁に「世界平和」って落書きを。1

今日は、夕飯の食料を買いに近くのショッピングモールに、そこの本屋で、Megamiマガジンを立ち読みしながら、ニヤニヤしている自分にうんざりの萌兄です。

まあ、それは良しとして、ビールを買うためレジに並んだら、レジ係の人に「二十歳こえてますか?」と聞かれてしまいました。ちょっと嬉しかったりします。僕は若いんだなとか、高校生でも通用するじゃんとかね。

前置きはさておいて、今日の話はいい加減なメディアの尊さって話で。最近僕が思うに、みんな考えすぎなんじゃないだろうか?例えば文学作品を読むにも、何がそこから読み取れるかとか、今の時代にどんなメッセージを投げかけてるのだろうかとか、小学校から、そういう事がテストに出るし、世の中には文学作品に対する評論とかも五万と出ている。

でも、そういうことって、一番大切なことなんだろうか?という疑問を投げかけると、よくこういう答えが出る事がある。それは、確かに作品に触れた時に、色々その作品に隠されたテーマやメッセージ、土台みたいな事を感じ取るのは大切な事だし、面白い事だと重いけど、やっぱり一番大切なのはその作品に触れている瞬間に、素直に楽しんだり、感動したりする事なんじゃないだろうかと。

くだけた言い方をすれば、音楽を聴くときに大切なのは、その旋律やビートに心躍らすこし聞き入る事で、作曲家や、時代背景のなどのウンチクや、メッセージ性や音楽性の議論は二の次でいいんじゃないかって事。

確かに、僕も、どっちかといえば、そういう考え方は解るし、生の芸術に生の人間が触れるってことはまさにそういうことなんだと思う。でも、今回僕が述べたいのはそうじゃない。僕が問題と思ってるのは、そういうふうに作品に触れている人に対して、ある意味、議論を強制してしまう、作品(メディア)の性質的な問題なのだ。

ちょっと例をあげてみよう。例えば、普通に人が美術館に行って、すごい絵画を見たとしよう、すると見た人はその絵にもちろん感動するだろう。でも、それと同時に、この絵は誰がどういう気持ちで書いて、どういう時代背景で、どういうメッセージがこもってて、とか、どういう絵の具で、どういうキャンパスに、どういう描き方で描いたんだろうとか極自然に考えると思う。きっとそういうふうに作品に触れた人に、いろいろ考えさせる力がある作品、メディアを『芸術』と呼べるのだと思うし、少なくともここではそう定義しよう。

それに対して、美術館から出て、駅で電車に乗る前に、入った公衆便所の壁に書いてある落書きを見ても、人は、何も感じないか、せいぜい嫌だなとか、結構上手いなとかそういう簡単な事しか頭に浮かばないだろう。こういうふうに、トイレの落書きも一応作品、メディアではあるけれど、それに触れた人に対して、何か考える事をさせないものもある。これをここでは『落書き』と呼ぼう。

続きは明日。



11月30日(木)21:29 | トラックバック(0) | コメント(0) | 小説・文芸 | 管理


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