トイレの壁に「世界平和」って落書きを。1 |
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| 今日は、夕飯の食料を買いに近くのショッピングモールに、そこの本屋で、Megamiマガジンを立ち読みしながら、ニヤニヤしている自分にうんざりの萌兄です。
まあ、それは良しとして、ビールを買うためレジに並んだら、レジ係の人に「二十歳こえてますか?」と聞かれてしまいました。ちょっと嬉しかったりします。僕は若いんだなとか、高校生でも通用するじゃんとかね。
前置きはさておいて、今日の話はいい加減なメディアの尊さって話で。最近僕が思うに、みんな考えすぎなんじゃないだろうか?例えば文学作品を読むにも、何がそこから読み取れるかとか、今の時代にどんなメッセージを投げかけてるのだろうかとか、小学校から、そういう事がテストに出るし、世の中には文学作品に対する評論とかも五万と出ている。
でも、そういうことって、一番大切なことなんだろうか?という疑問を投げかけると、よくこういう答えが出る事がある。それは、確かに作品に触れた時に、色々その作品に隠されたテーマやメッセージ、土台みたいな事を感じ取るのは大切な事だし、面白い事だと重いけど、やっぱり一番大切なのはその作品に触れている瞬間に、素直に楽しんだり、感動したりする事なんじゃないだろうかと。
くだけた言い方をすれば、音楽を聴くときに大切なのは、その旋律やビートに心躍らすこし聞き入る事で、作曲家や、時代背景のなどのウンチクや、メッセージ性や音楽性の議論は二の次でいいんじゃないかって事。
確かに、僕も、どっちかといえば、そういう考え方は解るし、生の芸術に生の人間が触れるってことはまさにそういうことなんだと思う。でも、今回僕が述べたいのはそうじゃない。僕が問題と思ってるのは、そういうふうに作品に触れている人に対して、ある意味、議論を強制してしまう、作品(メディア)の性質的な問題なのだ。
ちょっと例をあげてみよう。例えば、普通に人が美術館に行って、すごい絵画を見たとしよう、すると見た人はその絵にもちろん感動するだろう。でも、それと同時に、この絵は誰がどういう気持ちで書いて、どういう時代背景で、どういうメッセージがこもってて、とか、どういう絵の具で、どういうキャンパスに、どういう描き方で描いたんだろうとか極自然に考えると思う。きっとそういうふうに作品に触れた人に、いろいろ考えさせる力がある作品、メディアを『芸術』と呼べるのだと思うし、少なくともここではそう定義しよう。
それに対して、美術館から出て、駅で電車に乗る前に、入った公衆便所の壁に書いてある落書きを見ても、人は、何も感じないか、せいぜい嫌だなとか、結構上手いなとかそういう簡単な事しか頭に浮かばないだろう。こういうふうに、トイレの落書きも一応作品、メディアではあるけれど、それに触れた人に対して、何か考える事をさせないものもある。これをここでは『落書き』と呼ぼう。
続きは明日。
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11月30日(木)21:29 | トラックバック(0) | コメント(0) | 小説・文芸 | 管理
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