兄目線でアニメ
 
アニメに対する、視点、論点、あと,メイドさんとか、自作PCとか、鉄道とか酒とかな話。
 



俺たちのスクールデイズ。

昨日久々に大学の後輩と長電話などする。そのことについては後輩のブログにも載っているのでまあさておき。

このブログを愛読して下さっております、皆様方はアニメ「スクールデイズ」を見ているでしょうか?

あの、見るたびに気分の沈むアニメ、見たくは無いのに、見ないわけには行かない目くるめく展開。

そのことについて我々は小一時間、議論せずには居られなかったのである。まあ、議論の内容は後輩のブログが代わって書いてくれると思うので、ここでは割愛いたしますが、一つ後輩に伝え忘れた事があるので、ここで描いておこうと思うのです。

我々は、スクールデイズが「学生生活」というものを極端な形で象徴化した作品であると、そしてだからこそ「スクールデイズ」というタイトルには重みがあると話したのですが、ここで大切なファクターとして、スクールデイズという物語の中に「大人」が一人も出てこないという事実があります。

スクールデイズという作品は、ぶっちゃけ、極端な内容です。その極端な部分を支えるためには大人はどうしても邪魔になるのです。

以前から学生が妊娠するような話はいくらでもありますが、妊娠が発覚した時点で、物語は学生だけの者ではなくなって、彼等を取り巻く大人たち、つまり教師や両親などが介入し、純粋な意味でのスクールデイズではなくなってしまって、それは単なる社会派ドラマのようなものになってしまいます。

しかし、この作品では、主人公たちがコトに及ぶ場面でも、妊娠の発覚の後も大人の姿が全く無く、淡々と学生しか居ない世界が続いていきます。

そして同時にスクールデイズという作品には家庭的なものというものも排除するような構造になっています。まずその断片が見られるのは、主人公の伊藤が言葉を敬遠する部分に見て取れます。伊藤は最初言葉を外見的な部分から好きになり付き合い始めます。

しかし言葉が家庭的な性格であるところや、妹に合わせたり、母親の話をしたりと言葉に彼女の家族とのつながりの部分を見せ付けられるたびに伊藤は違和感を覚え彼女から離れてゆきます。そして、こういった事象は世界が妊娠し、世界と家庭を作らなければならない可能性を示された時点で、彼女を避けるようになったところにも見受けられます。

つまり、なにがいいますと、スクールデイズというという作品が、純粋な学生のみの話であるためには、主人公の伊藤は、家族という学校以外の社会を放棄しなければならなかったという事なのです。

まあ、こういう構造によって、スクールデイズという作品はスクールデイズとして成り立つ事が許されているわけで、でも結局のところ、僕自身が既に社会人であり、スクールデイズの中に無い時点で、スクールデイズという作品を一つ距離を置いて見てしまっている時点で、この作品の本質を知る事は難しいわけで、だからこの作品の論評については、あとは後輩に任せる事にします。

結局のところ、スクールデイズは学生しか存在しない、閉じた世界でしか成り立たない、一種の空想実験であると僕は思います。



9月15日(土)00:01 | トラックバック(0) | コメント(0) | アニメ | 管理

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