兄目線でアニメ
 
アニメに対する、視点、論点、あと,メイドさんとか、自作PCとか、鉄道とか酒とかな話。
 



アニメ品評会(後半戦)

天高く、メイド肥ゆる秋。

メイドさんが元気になればなるほど、ご主人様は、疲れてしまう。そんなものですよね、萌兄です。

今日は昨日の続きです。


シムーンとホスト部、ホスト部は当然ながら、シームーンも僕は学園漫画なのだと思った。
シームーンの中では、シムーンシヴィラ達は生徒(そういえば、シヴィラの平時の服は学生服っぽいし)で、館長たちは先生、師兵院や師聖院は教育委員会で、オナシアは教育長だったのだ。

整理してみよう、シヴィラ達は、目標に向かって日々鍛錬する、いわば生徒であり、戦争は試合みたいなものだった。しかし生徒たちがいくら努力しても、大人の事情というのがあって、序盤で、エースのネビリルが不調になり戦闘に参加しなくなると、例えばエースの居ない運動部のチームに遠征費を出すなんてもったいないといったように、生徒と現場の教師(艦長などの大人)と教育委員会(師兵院や師聖院)の対立は表面化する。それが中盤、エリートクラスだったコールテンペストは解散に追いやられそうになる、エピソードだ。でも、ここでネビリルが、がんばって、青春の叫びをオナシアの前でして、教育委員会の長たる教育長(オナシア)は心打たれ、鶴の一声で、何とかチームの解散は見送られる。しかし、二軍落ちしたコールテンペストは、その後あまり重要な試合も出来ず、学校の知名度を上げるため、ボロイ戦艦(バス)で、各地遠征に行くことに、まあ、それが結構上手くいって、チーム内にも友情が生まれ、終盤では、一軍に再度昇格するコールテンペストだったけれども、その時は、もう宮国軍という学校自体が火の車で、最後に最高の試合をするけど、それを最後に、学校は、敵の外資系資本の学園の傘下になり、結局コールテンペストも解散させられてしまい、皆は強制的に卒業させられる。しかし、彼女たち生徒は、自分がこの学校に居たことを忘れたくはなかった。ユンはオナシアの後を継ぎ、教育長に成り、社会に出ることを最後までしなかったし、社会に出た仲間たちも、ネビリルとアーエルを少女のままにすることで、永遠に留年させ、青春のままで居させることで、かつて自分たちも学生で、青春してたなーということを、ありのまま残したかったのだ。

萌兄も、大学四年なので思うが、やはり青春というものは、社会に出て、忙しい毎日の中で、時が立てば色あせてしまうのだと思う。でも、留年している友達が居てくれれば、その人を思い出した時、昔は、自分もあの学校に居て青春していたんだという事実に、再び出会えるのだと思う(だから、T先輩、卒業しないで…)。きっとシームーンの主題は、戦争とか、恋愛とか、宗教とかなんかじゃなくて、純粋に青春へのノスタルジーだったのだと思う。

そして、それとは対照的だったのが、桜欄高校ホスト部のラストだ。環は大人の事情に巻き込まれて、フランスに帰になり、鏡夜も、親の会社が買収されそうになる。その影響で、ホスト部という彼らの青春は、唐突に終わりを迎えそうになる。でも、彼らは、シムーンの彼女らと違い、まだ青春を卒業するには、時間が早すぎた。だから、鏡夜は自分の力で、親の会社を守り、環もハルヒや皆の助けで、学園生活を続けることを決意する。彼らは、自分の達の力で、大人の作った事情に打ち勝ち、青春を守りきったのだ。この結末は、大人の事情で、青春を終わらされたシームーンとは対照的に思える。でも、本当にそうなのだろうか?ホスト部の面々も、あと二、三年したらみんな卒業で、ばらばらだ。青春を守ったからといって永遠に続くわけじゃない。でも、ホスト部は青春をもう少し続けることで、シームーンは青春を形を変えて託すことで、どちらも人生の中の青春という奴を自分の心を超えて、世界に焼き付けたのだと思う。

青春、それはいつか失ってしまうものだ、でも、存在自体がなくなるわけじゃない。どちらの作品も、そういったメッセージをわれわれに教えてくれていたのだと、萌兄は、秋の空でも見ながら、物思いにふけって、拡大解釈するのでした。



9月30日(土)15:19 | トラックバック(0) | コメント(0) | アニメ | 管理

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