兄目線でアニメ
 
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2007年12月1日を表示

トモダチ倶楽部の崩壊1

トモダチ倶楽部。

東京の地下の某所にそれは確かに。けしてそれはインターネット上の仲間集めサイトとかそういうものではありません。

彼等は大江戸線とか半蔵門線とかのホームの片隅でよく会議を行っています。決して銀座線とか丸の内線のホームで行わないのは、彼等がそこまで牧歌的な性格の集団ではない事を象徴しているのでしょう。

まあ、前置きはこの辺にして、皆さんには先日起こってしまった、このトモダチ倶楽部の崩壊についてお話いたしましょう。

まず、崩壊してしまったトモダチ倶楽部について。
もともとトモダチ倶楽部の活動の主旨と言う物は、皆さんが想像されるような仲の良いお友達同士が集まり、皆で同じ時間を共有する。という単純なものではではありません。確かに彼等一人一人は強い友情で結べれていますし、たびたび会合を開くわけですから、そうともいえなくは無いのですが、それはこの倶楽部の本質とは言えません。

では一体、この倶楽部とっての本質はと聞かれれば、倶楽部の会員であれば全員口を揃えて「友達について議論」すること答えるでしょう。そうです、トモダチ倶楽部は単なるお友達同士の遊びではないのです、極めて文化的で崇高な団体です。しかも彼等は、単に議論するだけで活動を終えたりはしません。
議論で発見された、既存の友達の概念の中で間違いと思えるものは、ことごとく排除するために講義活動なども行います。例えば地下鉄の中で男一人、女二人という団体を見かけると、彼等はすぐさま講義活動を開始します。

まず、切り込み体長のK氏がその団体に声をかけます。
「君たちの間柄は友達同士と考えてもいいのかね?」突然話しかけられた三人は少し動揺しますが、三人のうち唯一の男が「そうですけれども」と一応の返事。するとK氏は「それはおかしい話だ。例えば君、君の小学校では鶏を飼ってはいなかったかい、その鶏小屋には雄鶏が一羽、雌鳥が二羽、そしてヒヨコが一匹いる。これはおかしくはないかい?」と見ず知らずの男に疑問を投げかけられ、三人うち女二人はさらに動揺し、残りの男は目つきを変えて「それがなんだって言うんだ、もういいからかまわないでくれ。」
しかし、そんな抵抗にK氏はひるんだりなどしません「じゃあ、質問を変えよう、ファミレスの隣のボックス席に、男が一人、女が二人、そして子供が一人。これはおかしくはないかい?」
「人を馬鹿にするのもいい加減にしろよ!」
「いやいや馬鹿に何てしていないさ、しかし君はどうするつもりなんだい?君はどちらの女性と、繁殖するつもりなんだい?ちゃんと選ばないとおかしなことになってしまうし、もし選ばないために友情というものを道具として扱っているのなら、それは友情というものに対して失礼極まりない行為だ!」
「もうやめてよ!」と女の一人が叫ぶ、「もう行きましょ。」ともう一人の女も男の手を引き、男が「この、きちがい野郎が!」とK氏に罵声を浴びせかけます。
しかし、そんな心無い言葉にもK氏は傷ついたりしません、いえK氏だけではなくトモダチ倶楽部の全員がそういった強い意志を持ってこの東京の地下における友達関係の正常化、また質の向上化に勤めているのです。その点を見ても、彼らトモダチ倶楽部は単なる自己満足に終始する、学会などの団体とは一線を画し、真に社会に対してもとても有益な団体といえたでしょう。

しかし、どんなに優良な団体であっても終わりは着ます。物事の終わりというものは、その終わる対象が強大であればあるほど、つまらないものがきっかけとなりそれが始まるものです。例えば、東西冷戦にしたところで、その終結の始まりはベルリンの壁に放られた一本のトンカチですし、フランス王朝の終焉も王妃の浪費が引き金を引き、大哲学者のニーチェの狂死のきっかけを作ったのも、惨めな馬車馬一匹だった。
そして、それらの大きな出来事とトモダチ倶楽部の崩壊を同程度の問題と考えるわけではありませんが、トモダチ倶楽部にとってのつまらないきっかけというものは、なんと一匹のオウムだったのです。



12月1日(土)16:22 | トラックバック(0) | コメント(0) | シュールレアリズム | 管理


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